ポール・ニプコー放送局(Fernsehsender Paul Nipkow)
実は、世界で最初に現在のような形式のテレビ放送を始めたのはナチス・ドイツです。
時は1934年、宣伝省大臣のヨーゼフ・ゲッベルスが、当時研究が進んでいたこの新しいメディアに目を付け設立させたのが「ポール・ニプコー放送局」。
「ポール・ニプコー」とは、当時映像を電気信号に変換するために広く用いられていた「ニポー円盤」という装置を開発したプロイセン出身の技術者の名前です。
また、日本における衛星放送と同様、2年後に迫った自国でのオリンピック開催に合わせる狙いもあったと思われ、実際にベルリン五輪は世界初のテレビ中継を成し遂げています。
毎日午後8時から10時までの2時間に渡って放送され(オリンピック期間中は8時間に延長)、当時の新聞には今と同じようなテレビ欄が1週間分掲載されていました。
ドイツテレビ放送(Deutscher Fernseh-Rundfunk)というチャンネル名で放送されていた番組は、ヒトラー総統の演説やパレード、プロパガンダ映画などは勿論のこと、
ニュース、ドラマ、音楽番組、料理番組、果ては宝くじの抽選会に至るまで、現在とほとんど変わらないくらい多彩なラインナップだったようです。
当時の契約者数は多い時でも数百人程度と非常に少なく、自宅で視聴できるのは一部の国民だけでしたが、一般市民向けとして「テレビシアター」なる施設が置かれていました。
そんなナチスのテレビ局が当時放送していた番組をいくつかご紹介します。なお、元ファイルの編集の都合上映像が所々ブツ切りになっている点はご了承ください。
フローナウ乗馬学校(KDF- Reitschule Frohnau)
時期不明
ベルリンのフローナウにある乗馬学校を取り上げた番組。3人のそれぞれキャラ立ってる感じが素敵です。
ナチス福祉局養豚場(NSV-Schweinemästerei)
時期不明
ナチス福祉局(Nationalsozialistische Volkswohlfahrt)というソーシャルワーク組織が運営する養豚場の紹介。樽のマークは鍵十字の失敗ではなくNSVのエンブレムだそうです。
美容(Schönheitspflege)
時期不明
婦人向けの番組も多く、これは美容学校の紹介も兼ねた美容番組でした。
屋上庭園(Dachgarten)
1935/6/19
初期の娯楽番組。当時のラジオ局の屋上にあった休憩施設を使って収録されていたようです。基本は歌番組で、1番目や3番目の動画ではミュージカル調の和やかな感じの歌が続きますが、2番目の動画では突撃隊(SA)と親衛隊(SS)を讃える内容の曲がさりげなくぶっこまれています。この辺の異常世界感が素晴らしいですね。
バイエルン援助隊(Hilfszug Bayern)
1936/
「バイエルン援助隊」は1934年に、ニュルンベルクで開かれるナチス党大会に先駆けて編成された大規模な炊き出し隊みたいなものらしいです(多分)。その後全国規模の食糧援助組織となり、戦時中はオーストリアやチェコスロバキアなど併合地域にまで遠征することもあったのだとか(多分)。(この辺よくわかんないので詳しい人のツッコミが欲しいです)
オリンピック選手村散策(Streifzug durch das Olympische Dorf)
1936/
「あなたを選手村の散策にご招待します!」とかいうテンプレートな挨拶から始まる紹介映像。「選手村でもテレビシアターが大人気!」というちゃっかりしたミニ情報も。
サッカー オーストリアvsポーランド(Fußballreportage Österreich- Polen)
1936/8/11
ベルリンオリンピックサッカー準決勝にて、オーストリアのチームがゴールを決めるシーンの中継映像。カメラがボールを追い切れていないのはさておき、この大会の一回戦では初出場で当時まったくの無名だった日本チームが名門のスウェーデンに勝利する"世紀の番狂わせ"があったことでも知られています。
ナチス党大会(Reichsparteitag)
1936/9/
ニュルンベルクにて9月6日から16日にかけて行われた第8回党大会を取り上げた番組。1つ目の動画は街中をゆく総統閣下を中継車から撮影した映像。カメラワークがそこはかとない手探り感を醸し出しています。2つ目は会場のルイトポルトアリーナの映像です。ナレーションから推察するに日付は9月14日。3つ目の動画は当時のニュルンベルク市長ヴィリー・リーベル(Willy Liebel)と党主任建築家のアルベルト・シュペーアのインタビュー。戦前のシュペーアの喋る映像は他に見たことがないので結構貴重かも知れません。最後の動画は総統の街宣シーンです。
国際狩猟展(Internatinale Jagdaussetellung)
1937/11/
ナチスが自然保護政策に力を入れていたのはそれなりに有名な話ですが、その理由の一つがヘルマン・ゲーリングが狩猟を趣味としていたためといわれています。これはベルリンで開かれた狩猟に関する展覧会の映像。
反ボリシェビズム展(Antibolschewistische Ausstellung)
1937/12/
反共主義のプロパガンダイベントの中継映像。フィッシャー参謀将校(?詳しくないので誰だかわかりません)がゲッベルスの原稿を代読しています。
ベルリン交通局実習生(Lehrlingsaufnahme in der BVG)
1938/
ベルリン市内の公共交通を担う交通局員の実習の様子を取り上げた番組。
シュヴァーネンヴェルダーの花嫁達(Bräute auf Schwanenwerder)
1938/8/10 20:49
ベルリン郊外ヴァンゼーの小島シュヴァーネンヴェルダーには「花嫁学校」があり、親衛隊員と婚約中の女性はここで花嫁修業をする必要がありました(この手の施設は欧米には元々よくあります)。映像だと歌のレッスンみたいなのもあるようです。手元にある中では放送日時が最も正確に特定できる番組でした。
歓喜力行団設立5周年(Fünf Jahre KDF)
1938/
歓喜力行団(Kraft durch Freude)は労働者向けのツアー旅行などのレクリエーションを企画していた団体です。本映像はそのリーダーでありドイツ労働戦線(DAF)指導者のロベルト・ライのインタビュー。
シラー劇場(Schillertheater) / ハインリヒ・ゲオルゲ(Heinrich George)
1938/11/15
ベルリンの老舗、シラー劇場の改装が完了したというニュースと、その新支配人に任命されたハインリヒ・ゲオルゲのインタビュー。ゲオルゲはドイツ映画初期の名優で、「メトロポリス」など著名な作品にも多く出演していますが、ナチス時代に左翼からナチズムに転向、戦後ソ連軍に捕えられ収容所で餓死したという悲劇の人です。映像でも総統をベタ誉めしています。
ドイツの農学生(Landeinsatz Dt. Studenten)
1939/
タイトルの訳にさっぱり自信がありません。これは恐らく骨相学に基づいた検査をしているシーンです。頭蓋骨の形で人格や犯罪傾向などが分かるという20世紀に大流行りした疑似科学ですが、たいてい雑な人種判定に用いられていました。当然ナチスも全面的に導入していて、そう考えるとなかなかヤバみのある映像です。
兵士同胞(Soldaten- Kameraden)
1939/8/24
第二次世界大戦開戦直前に放送された戦意高揚番組。
暦の葉(Kalenderblätter)
1943/7/
そろそろドイツもボロボロになってくる頃ですが、テレビは元気に植え込みを映していました。
快活さと意志は運命に打ち勝つ(Frohsinn und Wille meistern das Schicksal)
1944/
現在残っている最後の映像だそうです。負傷兵達が懸命なリハビリの末に奇跡の復活を遂げる感動番組。先天性の障害者は皆殺しの癖にこういうところはしっかりしてます。
[おまけ] 当時の放送システム
そもそもなぜ80年以上前のテレビ映像が現代に残っているのかというと、当時の放送の仕組みに理由があります。1938年に公開された「筆記する光の奇跡」(Das Wunder des schreibenden Lichts)という映画によると、フィルムで撮影した素材を改めて信号に変換して放送していたらしく、このフィルムが現存していたのです。生中継は、特殊なフィルムを用いて1分以内に現像し電波に乗せるという力技で実現していたようです。流石ドイツの技術力。
そんなわけで、ここで紹介した映像は放送信号に変換される前のもののため、実際に送信された映像とは若干画質が異なっています。レコーダーなど影も形もない時代の話ですから、さすがに受信者側が記録した映像など存在するわけが…と思いきや、何と当時フィルムカメラで画面を直接撮影した猛者がいたようです。画像はかなり荒いものの、当時の様子が分かります。ブラウン管のちらつきがいい感じです。